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 彼は知的欲求の色気に魅了されていた。週5日分×4=の月給を当初、彼は今まで買えなかった洋服や、友人・友人でもない人との付き合いの酒の席に消費してきた。が、2年を経た今、金で買えると分かった瞬間に購入画面のタブを閉じるようになった。五臓六腑無数のニューロンが指令を記憶していた。「なんて商売だなんて商売だ」・・・ふて寝。あらゆる資源は配達され、ダンボールを開いた瞬間に密閉された空気と共にその蠱惑的質感・光沢・芳香は逃げていった。18000円の英字がプリントされたパーカーがこちらを見つめる。

 彼はサラリーマンであり、経済に担保され、加担する身ではあったがそれに関しては割り切っていた。そうでもしないと自身が生きられない身であることは理解しているつもりだった。彼は何より寝ることが好きだったし、寒さ・暑さを何よりも嫌っていた。冷めた弁当を食べると吐いてしまうし、埃に敏感でアレルギーも多い。しかし、彼は風俗と賭け事だけは好きだった。そのどちらも自身に無関心であったからである。権威や階級・体制の仕組みに根ざしたものではない彼のvoidは、文章化もされず、大きな声を張り上げながら官邸前のデモに参加するなどという政治への怒りもなく、故にvoidであった。我思う故にvoidあり。デカルトの「我思う故に、我あり」も彼にとっってはレトリックのギミック以外の何者でもなかった。

 とにかく、経済のプレイヤーであることに退屈し、彼はそれらとは離れた地点にある「知性」を求めたのだ。とりあえず聞いたことのある名前の本を読んでみた。読了した時、彼は本の内容を何も覚えていないことに愕然とした。メモをとりながら再読する事にした。10ヶ月を要した。途中で何度もデリバリーヘルスを頼み、セックスをしながらメモをとったため読めない箇所が何個もあった。それらは涙でさらにぐしゃぐしゃに濡れ、インクは滲み、見えなくなった。映画・音楽にしても同様であった。泣けそうなポイントが訪れたと察知しては用意していた包丁でタマネギをみじん切りにした。みじん切りに集中するあまり、映画・音楽の内容は頭には入ってこず、彼は何度も繰り返し再生し、その結果ハードディスクはぶんぶんと唸り、熱を増し、飴色のタマネギ炒めが皿の上に。彼はそれに醤油をかけ、白飯に乗せて食べることが趣味となってしまった。1週間後には彼もその味に飽き、キムチ・納豆・ネギ、、、様々な具材のアレンジを試みてきたが2ヶ月後、10錠のバファリンを砕いたものと混ぜ合わせ、食してしまい、彼は病院へ搬送され、その趣味も止めた。

 彼は病床にて今後、どのようにするべきか考えた。灰皿はたまっていった。全てに飽き飽きしていた。淡白な病院食、一面の白い壁も最初は新鮮だったが、天井に染みを見つけたから興が醒めた。

 旅行に行こう。

 思い立った。「旅行」という概念に彼は懐疑的であった。場所の移動がなにをもたらすというのか。会社の人間はよく有給でどこそこに行ったなどと話していたが全く魅力的には思えなかった。3日違う所に行ってなにを持ち帰れるというのか。コストパフォーマンス、というものに彼は常に細心の注意を払い、飲み会の席に顔を出す事も少なく、それゆえに友人も少なかった。

 幸い、会社からは長期の休養が言い渡され、貯金もそれなりにあった。行き場所を考えようと思ったが特に当ても無くなぜかロシアになった。

 ロシア出航の前日に彼は倦怠に襲われたがなんとか力を振り絞り羽田まで足を運び、そしてロシアへ行った。

 ロシアは寒かった。なんとなくの安宿を決めて凍えながら街角を歩いた。やがて雪が降ると、彼はしばらく淀んだ空色を仰いだ。冷え冷えとしたロシアの空気は自分に合っているようにも思えた。それなりの憧れからウォッカを嗜み、体の奥がじんじんと暖まってからのことだった。あらゆる音を雪はすぐに飲み込んだ。自分しかこの地球上にいないように思えた。

 2日経って彼は帰国した。ロシアでの経験をしたためたエッセイを書こうと原稿用紙に向き合ってみたがまた、飽きが来てタバコを吸っては時は過ぎていった。くしゃくしゃになった原稿用紙に、煙を吐きながら目をみやりなんとなく手に取った。おもむろにそれを手で破る。ばぁりしゅあばぁりしゅあ。音が部屋に、タバコの煙と共に充満した。はらはらと落ちていく紙の破片は、ロシアの雪を想起させた。彼はずっとその作業をしていたが疲れてやがて眠った。起きると部屋の床は紙の破片でいっぱいになりフローリングの焦げた茶色の出番は無くなっていた。やはり、ロシアのようで彼は少し満足した。