コデイン侍。茶屋にて。

夏の終わりが近そうだが、俺の予想だともう一度暑い日が続く。四季の循環というのはありがたいもので、毎日季節の変わり目には何か出来そうな気配と曖昧な郷愁だけ残しては去っていく。

 とはいえ、なんとか自分が会社には入り、そして暑い夏を乗り越えることが出来そうなのは良かった。コートなんか羽織る日には、年末年始には涙すら流しそうな程に。年をとればとるほど、時間が短く感じられるという定説があるが、確かにその通りだった。

 やりたいことは1%ほどしかできな かった い cant kant  cunt.(女性器)

誰かのために何かするという奉仕は愛なのか?ということをよく考える。「もろもろのハナシ」で、オードリー若林は「自分のためだけに生きられなくなった」と発言しており、その予兆をひしひしと感じる私は、ああやはりそうなのか・・・と。自分自体がそもそも究極どうでもよいし、世間には何も届かなさがすごい。バニラなんちゃらの広告車がかき消すのだ、そんな喘ぎ声は。憎むべき物を、笑いに変えることでやり過ごす生活はどんな気分だろう。

 他人の事情など分かりはしないという前提で、俺は他人になにか別の選択肢を提示する。アドバイス、という概念に対しては怒りがある。「〜〜した方がいい。」くだらない。SNS・メディア、shut up.正直毎日血と茶番。見られることを前提とした、見られることを前提としていないようにとれる発言。イージー。チープ。逃げる。もっと分析が必要だ。分析しなくてもそれなりの手触りで満足してきた20年間である。文学的青年の陥りがちな、何も解決しなさ。

 俺は次のSNSはラジオになるべきという持論がある。もしくはルーズリーフ。よりプリミティブな見られることを前提としない、内輪のコミュニケーションこそに現在に蔓延る諧謔的でないユーモアがあるように思う。多くのトラックメイカーが、リプライでツッコミを入れたりするのはまさにこれに近い嗅覚を持っているからでは?しかし、そうなるともう見られることを前提としている状況設定に逼迫感を感じ、もう笑えない。そこでラジオかルーズリーフなのである。ルーズリーフとは、、、

 俺は、ルーズリーフに深夜、やりたいこと・わからないものを書く事が多い。そういう意味でルーズリーフである。

 XXXTentacionのアルバム「17」がリリース。素晴らしかった。

 何やっても金、大体余るので、しっかり使うことにした。ほっといてくれ。銅像語で皆しゃべってくる。

 車・スケートボードという普段しない移動をしたら、結構落ち着いた。

 キンタマ。そういえば、キンタマ。 あっそうそう!キンタマ!思考の放棄の末の同意と確認で成り立ってるのではないですかね、世界?世の中に両方ともいらなくないですか?残らないことを知っていて何かすることほど空しい作業もないな。

 最近酒にはまりだした。ここにきてすんごい。こんなものが結構気持ちいい感じで流通・宣伝されてるの怖いな。

少し考えます。何を恐れてるのかもよくわかりません。